1936年11月16日にアンドレ・ジャビー(フランス)操縦のコードロン・シムーンがパリ~東京間の懸賞飛行中に悪天候のため目的地変更。福岡の雁ノ巣空港を目指していましたが脊振山に不時着ししました。
飛行機事故に気づいた旧脊振村の人たちが全村挙げて捜索が始まり、濃霧と草木の生い茂るジャングルような脊振の山中は困難を極めましたが四時間以上に及ぶ捜索の上、山頂付近で機体を発見。
ジャピー氏は重傷を負っていましたがパラシュートで作った急ごしらえの担架に乗せて下山、墜落から七時間に及ぶ救出劇だったそうです。
地元の診療所で応急処置を受けたジャピー氏は翌日に福岡の九州大学病院に運ばれここで治療を施されました。最初は東京での治療を希望されていたようですが設備の整った医療とまわりからの温かい励ましでここに留まることを決めたようです。
ジャピー氏は一命を取りとめ、翌年3月に全快し村人から盛大な祝福と激励を受けて帰国しました。
この出来事は大きな話題になり、フランスと日本をつなぐ感動的な出来事として、今でも語り伝えられています。墜落した山中には石碑が建立されています。
この縁は今も続いておりジャピー氏出身のボークール市は神埼市との間で姉妹都市締結を行っています。
墜落当時の現場の様子
機首部分だがばらばらになっている。ジャピー氏は頭部に深い裂傷を負い、右肩や左脚を骨折の重傷であった。
飛べ!赤い翼
児童書であるが綿密な取材で記録として価値のある一冊です。
当時、退院時の様子
現在のボークール市との交流会